戦中戦後の混乱期を生きて

正看護師  中村 英子   

 
 
玉音放送があると言われて、姉妹はラヂオの前に正座をした。ザーザーズズー雑音ばかりでなかなか音声が出て来ない。父がポンポンとラヂオを叩くと音声は回復した。当時私は国民学校の五年生であった「耐え難きを耐え」「忍び難きを忍び」「万世の為に太平を開く」このお言葉のみが記憶に残った。これが私の昭和二十年八月十五日です。

 今や戦争を知らない世代が七割以上となり、この施設を御利用下さいます方々の多くは戦火をかい潜って来られました数少ない生き証人となりました。そして私は同世代を生きた人々の上に、言い知れぬ親しみを覚えるのです。八月六日の介護教室で、私は敢えて太平洋戦争の体験を語りました。「思えばあの日は雨だった。坊やは背なですやすやと肩を枕に眠っていたがあーあ頬に涙が光ってえた」私が歌い出した時、通所者の中から歌声が返って来ました。
毎日のように、出征兵士を送る光景で飾りのない、真白な割烹着の上に「大日本国防婦人会」と記された「タスキ」を掛け、赤ちゃんを背負い幼な子の手を引いて「どなた」の見送りをされたのか・・・もしも御主人であったのなら、復員されて幸福な家庭を築かれたのか、又、戦死をされて、茨の道を歩まれたのか、今となっては知る由もありません。

 有事法制が議論されます昨今、若者達を生贄にし、犠牲にし消耗品の如く扱った日本軍を再び作ってはならないのです。「賢者は歴史に学び、愚者は体験に学ぶ」と言われますが、世界の長い戦争史の中で防衛が成功している時は、戦争は起こっていないといわれます。

 戦後日本は、軍国主義国家から民主主義国家に変身、価値観が一変し、飢餓の日本から暖衣飽食の日本になり、久しい時が流れて、敗れても富める国になった。この「浦安の世」が三百十万人とも言われる尊い命の犠牲にあることを忘れかけようとしています。敗戦の長い道のりを歩み、恒久平和を願う憲法第九条の精神を大切にし、世界で唯一の被爆国であるからこそ非核三原則を守り、核を使わず、軍事力も行使せず、平和外交で国防をするための有事法制を願い、日本から世界に発信すべきだと考えるものです。

 8月6日に通所して下さいました方々が、再び戦争を起こさぬよう語り続ける意義を熱く語られました。そして、私の思いが、心が、通所者の方々の中にあるのだと実感した瞬間でありました。「命は天にあり」命ばかりは自らの意思にていかんともしがたいものですが、生きる為に必要な「空気」「日光」「水」(一部有料ですが)等は無償で生かされています。戦火の中を生き抜いてこられた尊い命です。「転ばず」「食べ過ぎず」「風邪引かず」の三原を守り、天寿を全うされますことを祈り、結びと致します。

平成14年8月20日

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